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思い出の記録

妙高高原町立妙高中学校「50周年記念誌~思い出の記」より

第1回卒業生から第9回卒業生

50年を迎えて

第1回卒 竹内 悠紀麿

 妙高中学校が創立50年を迎え、お喜び申し上げます

 50年前、中央電気工業の青年学校の借校舎で、午前午後の二部授業、終戦敗戦直後の着る物、履く物、食べる物もない食糧、物資不足の時代、教科書も新聞紙大の物を折ったり切ったりして綴ったものでした。

 昭和22年学制改革によって、義務教育男女共学で名香山中学として発足し翌23年名香山、杉野沢村組合立妙高中学となり、12月新校舎へ机やイスなどを背負って引っ越しをしたこと、廊下で卒業式をしたことなど、今思い出すと楽しかったこと苦しかったこと、今の子供たちには想像もつかないことと思います。この50周年を契機として益々妙高中学のご発展を祈念いたします。

中電のグランド

第2回卒 宮田 正雄

 スキーで有名な我が母校ですが、自分は野球部でした。当時、中学校舎は無く、中央電気の御厚意で会社の建物を利用し、午前・午後の二部授業が行われた。信越線の東側。電解課の近くに広いグランドがあり、野球を十分楽しむことが出来ました。私の野球人生の始まりです。

 当時、巨人阪神戦が我が町にもありました。中電対第一電工戦です。中電のアンダースローエース・中西投手対、第一電工の4番は倉林部長、観客も多く我々野球部もワクワクしながら観戦した記憶があります。

 仲間3人で早朝野球連盟を作り、15チーム、年間210試合を消化し、素晴らしい野球場も作って頂きました。昔の我が町のゴールデンカードは今はなく淋しい。復活はないか、どうか。

思い出の記念樹

第3回卒 竹田 英一

 昭和23年春、妙中創立の開校式兼入学式が中央電気工業KKの食堂で実施、私達新入生は199名であったが学生服を着ている者はほとんどいない。授業は午前と午後の2部授業。12月に机や椅子等の備品を運んで、木の香漂う新校舎へ引越し感激もひとしおであった。体育館もグランドも無く裏庭での体育大会や球技大会、廊下での入学式や卒業式を行う。3年の時、体育館の新築工事が始まり鉄骨のリベット打ちの音で授業中の先生の声が聞こえない。春ようやく完成し卒業式のみ新体育館で実施。卒業記念にとヒマラヤ杉を裏庭に植栽する。

 時が過ぎ私がPTA会長の時、新校舎が改築され、記念事業として校舎整備を計画したが実施計画案では我々の卒業記念樹を全て伐採し築山にし芝生化の計画。急きょ記念樹を残して頂くようにお願いする。現在校舎の真中に残っている4本のヒマラヤ杉は、私達3回生にとって現存する唯一の思い出の樹である。

故郷の山「妙高」

第4回卒 中島 秀夫

 古今東西、故郷を懐かしむ時に、故郷の山・川を愛でることが多い。日本は自然に囲まれているので、各地とも我が国の山・川こそが日本一、あるいは世界一ともてはやす。では、本当に良き山・川はどこなのだろうかと考えてしまいます。その一つの拠り所が、深田久弥著「日本百名山」と言えよう。日本の名山には枚挙にいとまがないので、その後記には選出されなかった山々の紹介や説明がつけくわえられている。我々の故郷の山「妙高」「火打」は百名山に選出され、焼山は選外となったが、火打山の中で頸城三山として紹介されており、嬉しく思った。

 越後富士とも言われ、この著書の中で命名のいわく因縁まで記されており、こと地に育った者としては、終生誇りに思える山を頂いていることに感謝する次第です。

 旅の途中、信越線や北越急行ほくほく線の車窓から「妙高山」が眼に入ったときは、昔の楽しい思い出とともに、心の安らぎをおぼえるものです。               

在学当時の思い出

第5回卒 岡田 至

 私達が入学した年は太平洋戦争が終わってから5年程過ぎていました。この頃は不足していた物も少しは出回り、人心もようやく安定してきました。このような時期に立入校長先生を始め良き先生方に恵まれ勉学にスポーツに励むことができたことは終生忘れ得ぬ思い出となっています。

 その中で特に思い出されるのはよく行われたクラス対抗のスポーツ大会です。当時体育館がなくアウトドアのものが多くバレーボールは男女混合チームでした。この時に修得したスポーツは社会生活にも大いに役立っています。

 それから横浜市の中学校を招いてスキーを体験して頂き大変喜ばれました。今は長年都会生活ですが帰省のたびに秀峰妙高山を仰ぎ楽しかった妙中時代を懐かしんでいます。

戦後復興期のころ

第6回卒 内田 利夫

 在学からもう40数年の歳月が流れた。まさに隔世の感一人であり、想い出も日々に疎く当時のことが鮮明にならないというのが実感だ。その頃はいまだ戦争の傷跡が癒えておらず極めて物資の乏しい時であり、校舎や屋体はやっと出来ていたが、グランドは生徒の労力奉仕で造ったものだった。手作りのボールやグローブで遊んだ野球や、誠にお粗末な教科書や教材で受けた授業だったが、それでも当時の生徒に暗さがあったとは記憶にない。戦後復興の熱いエネルギーがそうさせたのか、圧倒的に強かったスキー部の活躍が生徒の心を一つにさせたからだろうか?

 教師も生徒も共に、新しい時代の夜明けに向かって、気持ちを結集させていた時だったと思う。

雷先生とバレーボール

第7回卒 竹内 十四男

 今思い出として残っている幾つかの中に「雷先生とバレーボール」があります。当時校内バレーボール大会が開催されておりました。学年で勝ち抜くと上級生との戦いがあり大変熱の入ったイベントでした。

 私達クラスの担任であり社会科の先生であった雷先生こと岡田芳雄先生のご指導で私達はめきめき腕をあげました。それもそのはず選抜された選手は試合が近づくと社会科の時間はバレーボールの練習についやしたのです。その練習内容は極めて厳しくかつて「東洋の魔女」を育てた大松監督並みのご指導でした。

 そのかいあって私たちクラスは、2年生の時に上級生の3年生に勝ち全校優勝しました。校内新聞でも大きくとりあげ大変な評判になった事を今でも鮮烈に思い出されます。

妙高中学校の思い出

第8回卒 室井(岡田) 正子

 40数年前の中学校の思い出を書くにあたり、すっかり色あせた記憶を探り出すために数枚の集合写真を出してみました。力いっぱい走った運動会と仮装行列、スキー大会や校内合唱コンクール(私たちのクラスは、男子の活躍のおかげで良い成績をおさめた)も忘れられません。テストになれば結構勉強もしました。

 その後、私は就職をして名古屋に行きました。クラスの友達とも何回か会っていますが、卒業後一回も会っていない友達や他界された方もいます。40数年の年月を、今振り返るとき、美しい景色と清々しい空気、やさしい人々のいる故郷を持っていることが私をとても幸福な気持ちにさせてくれます。あらためて、有意義な中学校生活だったと思います。

名物先生との出会い

第9回卒 小宮山 米英

 妙中で、多くの名物先生との出会いは、懐かしい思い出である。紙面の都合上ほんの一部しか紹介出来ないのが残念。何時も懐中時計を持ち、直立不動で歩き授業は本を置くとベルが鳴る、昼食は12時キッカリ終わりは15分丁度と、時計仕掛けの様な「○先生」。野口英世の風貌で口を尖らせ口角泡を飛ばして英語の授業、酔えば2階の窓から「小便小僧でゴザーイ」と楽しい「T先生」。宝塚男優スターが先生に?、容姿端麗、髪は七三紅顔の美少年、3年間スカート姿はついぞ見ることのなかった妙中のマドンナ「H先生」等々。

 まだまだ名物先生の顔そして顔が脳裏に焼き付いて離れません。終わりに鬼箱に入れられた先生にはご冥福を、御存命の先生には御無礼をお許し下さい。

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