top of page
AdobeStock_222142663_edited.jpg

思い出の記録

妙高高原町立妙高中学校「50周年記念誌~思い出の記」より

第10回卒業生から第19回卒業生

三年に一回の合同同窓会

第10回卒 常田 栄二

 私達10回生は1クラス50人の4組200名近い生徒がいました。今と違って勉強勉強と言われなかったように記憶しています。でも真面目に勉強した人は大勢いましたし、皆伸び伸びとしていたように思います。

 同級会で集まると楽しかった東京、江の島方面への修学旅行、苦しかった赤川・熊坂をまわってのマラソン大会があり思い出してはワイワイは話しています。何十年ぶりに会って顔が思い出せずに「おまん誰だね」と聞いたりしますが、すぐ中学時代にタイムスリップし昔話に花が咲き同級生って本当にいいものだと思っています。

 でも、我々の年代に入ると数名の人がこの世を去っており、自然と健康に関する話題も多くなります。次回も元気で会えるよう約束して別れます。

同級生と先生のあだな

第11回卒 佐藤 雄二

 卒業後39年を過ぎてしまった事になる。当時4クラスあった同級生とは、ほぼ2年に1回同期会を行っているが、40年も前の事を鮮明に思い出すから不思議なものだ。

 当時はまさに天真爛漫、勉強はそっちのけの状態だった。そんな中学時代に友達にも、先生方にもいろんなあだなが付いていた。ジイちゃもバアちゃもいた。スーちゃの声はとてつもなくでっかかった。かけっこはショーちゃの得意種目、キートンはマイペース。サブちゃはひょうきん者。

 こかれても、時にたたかれても学校は楽しかった。他に娯楽のほとんど無い時代、学校が遊びの場だった様な気がする。思い出すと随分むちゃくちゃな中学時代であったが、みんな心が通い合っていたと思う。50周年万歳。

あのころはよかった

第12回卒 中村(高橋) 愛姫

 世界の人々をも驚かせたあの猟奇殺人事件は中学生だった。良きにつけ悪しきにつけゆれ動く年頃とはいえあの少年の過ごした月日に何があったのだろうか。更正して戻ってきた時には社会と多くの同級生の支えが大切に思います。

 私達の中学生はというと、今のように陰湿ないじめはなく、又それを理由に命を絶つ等という逃避的な柔な子もいなかったように思います。運動会が近づくと校庭に一列に並んで小石を拾う共同作業をしたり、自然の恵みを頂きに笋狩りを楽しんだりと今よりゆっくりと時間が流れていたように思います。集団教育であっても「各々が持つ時間」の違いが生かされた教育がなされ、後ろを歩んでいる者も何かしら意義のあることに気づいてほしいと思います。

そして私の中学生時代はまさに青春そのものでした。「あの頃は良かった」と今なつかしく思える事に感謝しています。

でっけえグランドの思い出

第13回卒 高田 保則

 昭和36年3月の卒業から36年余り、又、創立30周年を迎え、当時の思い出を辿っております。

3年生の春、教務室に呼ばれたので、恐る恐る入って行くと、新しく赴任して来た、坂田校長先生と陸上部の橋立先生に「高田君、今年新しいグランドができるがグランド整備を体育部に手伝ってもらいたい」と言う事であった。当時のグランドは、縦40m横80m位しかなく、そこで陸上部、野球部、スキー部が互いに遠慮をしながら活動していたものですからグランドが出来ると言う事でもう嬉しくて。

 体育部長としては相当責任を感じた記憶があります。秋の完成まで生徒の懸命な労働奉仕が続きました。今までの約2倍強の広さでしたので大変でした。しかし、その苦労も新グランドでの大運動会で吹き飛んだような様な気がしました。グランドを見ていると当時が懐かしく感じられます。

通学路

第14回卒 郷戸 充吾

 満天の星、月の光も届かないような暗い林の中へ進んでいく、それまでワイワイ話をしていた仲間達が急に黙ってしまう。心なしか歩くスピードも速くなって来たように思う。リーダー格の人を先頭に石ころだらけの道を一歩一歩足元を確かめながら遅れないように必死で着いて行く。追われるように林も抜け広い田んぼの向こうに杉野沢の人家の明かりが見える場所についた。意味もなくホッとする。

 春夏秋冬、それぞれに辛くもあり又楽しい事もいっぱいの通学路であったように思う。35年、あまりにも大きな変革の時代の中を歩き、走ってきた私にとって(今は時代について行かない)ふとあの時代に帰ってみたいように、思える今日この頃です。

皆、元気か

第15回卒 清水 正和

 卒業して早35年、私が生まれた年に第1回の卒業生が誕生したことになる。原稿を書くにあたって卒業記念誌「いろり日」を開いた。

 我々は戦後のベビーブーム第1弾。5クラス219名と恩師の顔を眺めていると、中学時代の思い出が走馬灯の如くめぐってきた。体育や行動以外の授業の時間がいやに長く感じたものだ。受験戦争というのは我々の時代に生まれた言葉だが、以外にのんびりしていたと思う。それは、四季がはっきりしているこの妙高高原の自然の豊かさ雄大さの中での生活によるものだ。

 私個人の思い出として、クラス対抗のジャンプ競技だ。選手選びのじゃんけんに負け、裏山のジャンプ台の上にたち鳥肌がたった。これがスタートだった。

団塊世代の豊かさ

第16回卒 星野 幹男

 創立50周年おめでとうございます。思い起こすこと30数年前、担任の先生が「勇気と思いやり」というテーマで自由にディスカッションさせてくれたことを思い出し、時代が変化した今でもこのテーマは、中学生にそのまま通用する気がしました。

 同期の仲間は200数十名で団塊の世代と呼ばれて久しく運動でも勉強でもランク付けは当然のこと、秀才も沢山いれば凡才はなおさら多い。しかし皆ゴーイングマイウェイ型の努力家達でした。団塊ゆえに、学校のプール作りや、国旗掲揚塔作りの人足に役立ったのを覚えています。

 あの頃は、先生と生徒が信頼と尊敬の中「いい関係」を保ちながら楽しく過ごすことが出来た最高の学び舎でした。

思い出と友達

第17回卒 築田 重美

 中学を卒業して30年以上過ぎます。それぞれの道に進み、その先で多くの友達が出来ました。私は時々中学時代の友達と今の中学生に感心したり、批判したり、又私達の時代はお弁当を持って行った事、たまに食べるあんバターがおいしかったこと、杉野沢や遠くの人達も歩いて登校していたこと、労働奉仕で国旗掲揚塔が出来たこと、キャンプの時は笹ヶ峰まで歩いたこと、新校舎と旧校舎の間にプールが出来うれしかったけれど泳げなかったねとなつかしい話が出ます。

 中学時代一緒に過ごした友、あの頃30年後も友達でいられるかしらなんて考えても見なかったけれども、今私にとって大切な友達です。きっと中学時代の楽しい思い出があるからこれからも友達でいられそうです。

クラブ活動の思い出

第18回卒 岡田 染子

 妙高中学校創立50周年記念誌に載せるので、当時の思い出をと言われペンを取りました。私の3年間は、夏のバレー、冬はスキーと勉強よりスポーツに励んだことが記憶に残ります。勝ったり負けたり、でも不思議と楽しい思い出ばかり頭に浮かびます。

 体育のクラブは7クラブあり、体育館が狭く練習をする場所の確保が大変でした。放課後の雨の日は、外の陸上、野球部が校舎の中に入って、廊下、階段、体育館が練習でにぎやかでした。バレーボールでは、植木・竹田両先生と練習をしたことが懐かしく思い出されます。冬は、1年生の時に完成した国旗掲揚塔のあるグランドを何周もスキーで走り回り、2年の時、県中学校スキー大会のリレーで優勝したことがとても忘れられない思い出です。

 卒業して30年余りたったいま、妙高中学校時代をこうして思い出していると、懐かしい友達の一人一人の顔が脳裏に浮かんできます。

母の手づくり弁当と究極の一品

第19回卒 堀川 勇

 顧みるといろいろな思い出が浮かんでくる。その中から「早弁、はしあんバタソーセージ」を書こうと思う。まだ給食はなく、母が「昼食」にと作ってくれた特大大盛り弁当を持って行くのが楽しみの時代、成長期真っ盛りに、その弁当はおやつに早変わりするので昼食時間は当然弁当の中身がない。

 だから、毎朝弁当を持ってきながらあの「○○○○パン店」へ必ず寄って注文するのが腹持ちする、パン両端の耳にあんこ・バターをぬり、その間にソーセージを挟んだ究極の一品「はしあんバタソーセージ」、とても希少価値のあるものでした。

 わが母校に今一年生として愚息が入学し、早弁のスリルはないが毎日美味しい給食を大盛り食べています。あの味を一度は食べさせたいが、嫌がるかな?

AdobeStock_490729850.jpeg
bottom of page