
コミュニティースクール

思い出の記録
妙高高原町立妙高中学校「50周年記念誌~思い出の記」より
第20回卒業生から第29回卒業生
「怒る先生」
第20回卒 池田 求
中学を卒業してもう30年も過ぎてしまい、想い出す事は何だろうかと考えるに、よく先生に怒られたものだ。その先生の名前は「豊岡先生」だ。先生は声もでかいが手も早かった。頭にはゲンコツ、耳は引っぱる、足蹴りも早い、いまでも耳がくっついているのが不思議なくらいだ。よく怒鳴ったり、怒ったりしたもんだ。今度会えたら仕返しでも……。
楽しみを言えば、昼休み時間の皆でするバスケだった。バスケをする為には弁当を早めに食べる事だ。3限と4限の間に食べたり、時には授業中に食べたような気がする。早く体育館へ行ってコートを陣取る事と仲間に入る事、そうでないとバスケができなかった。
私は別にスポーツ部に入っていた訳ではないが昼休みのバスケは、今で言えばストレスの解消だったに違いない。よく飽きずに熱中していたものだ。まだまだ苦い想いで、楽しい思い出もあるが〝豊岡先生ありがとう″
遥かなる思い
第21回卒 真貝(小倉) 典子
故郷を離れて20数年。中学時代の思い出は、即、故郷の思い出につながります。一番私の心の中に残っているのは、当時、新校舎だった3年の教室から見えた、グランド越しにのぞむ妙高山の雄々しさです。目をつぶると浮かんでくる旧校舎。広い渡り廊下の右手にトイレ、左手に水飲み場。そう、昼には近くのパン屋さんが卓球台の上に番号のついたパンを並べてくれたっけ。そして、新校舎。中庭にはプール。
不思議とその風景を思い出す季節は初夏でした。まさに、私の人生でも初夏の時代だったのです。初恋とも呼べる経験もしました。友達、音楽、本、全てが楽しかったあの頃。時は変わっても、今でも妙高山は妙中の一人一人を見守っているのでしょうね。
坊主頭の中学生
第22回卒 原田 照文
私が中学1年生を終わろうとした頃、妙高中学校では、大きな問題が持ち上がっていました。「男子は全員、坊主頭」と決まったことです。その当時は、小学生の時は坊主頭、中学生になると髪を伸ばす者が多く、髪を伸ばすと、少し、大人になった気分でいたものですから、坊主頭になることは相当に抵抗があったようです。
私の1年1組では、クラスの話し合いで、学校で決まった日より早く、坊主頭にすることを決め、1ケ月以上前に、男子全員が髪を切りました。髪を切るのが恥ずかしく、同級生何人かで床屋へ行ったことが思い出されます。髪を切った後、お互いの顔を見て、腹をかかえて笑ったことが、今になると、なつかしく思い出されます。
体育館のステージ
第23回卒 荒井 修一
創立30周年おめでとうございます。妙高中学校を卒業して早27年、我が子も中学へ通う歳になりました。中学時代の事で必ず思い浮かぶのが、体育館のステージの上です。
私はブラスバンドに所属していましたが、練習の殆どは、このステージでやっていたと思います。楽器はクラリネット、ステージに向かって左端が、私の定位置でした。その場所から、体育館でやっている外のクラブの練習を眺めていましたが、さぞかしうるさかったと思います。今にして思うと、その場所が私にとって、一番居心地の良い場所だったのかもしれません。
今はもう建て替えられて新しくなってしまいましたが、昔の体育館のステージが今でも懐かし思い出されます。
なつかしい思い出
第25回卒 郷戸 若菜
中学校を卒業して25年が経ち当時を思い出すと、いろいろいたずらをした事が思い出となっています。
1年生の冬の事です。新校舎のクラスでしたが当時は、ネズミがよく出たのでしょうか。……吉田先生の授業の時、事前につかまえておいたネズミを部屋に放してサボるという考えを思いつきクラスが一つになって実行しました。(そんな時の団結は強かった)しかし我々の考えが甘かったのか、その日のネズミは部屋を動き回らず先生の「ネズミの1匹や2匹で驚くな!」の一言で失敗に終わったことがありました。
また、クラスで捨てネコを飼ったこともあり数々のいたずらをしました。でも、毎日が楽しかったという思い出が心に刻まれている中学生活でした。
思い出 ひとつ
第24回卒 宮本 保
中学校創立50周年おめでとうございます。24回卒業生の皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。
卒業間近の頃、先生から「隣の妙高村の中学校が統合されて、名前が『妙高中学』になるようだが、みんなはどう思う?」との質問あり。急な質問だったせいか、みんなに答えなし。私もボンヤリ「ゴチャゴチャになるだろうな」とその程度。そんなことも忘れかけていた頃、ある新聞の記事「第一位妙高中学校(町立)、第三位妙高中学校(村立)」! あの時もっと反対すべきだったのかな?
いや、今は定着しているので良かったのかな?とチョッピリ反省。遠い昔の思い出「ひとつ」でした。
なつかしい思い出
第25回卒 郷戸 若菜
中学校を卒業して25年が経ち当時を思い出すと、いろいろいたずらをした事が思い出となっています。
1年生の冬の事です。新校舎のクラスでしたが当時は、ネズミがよく出たのでしょうか。……吉田先生の授業の時、事前につかまえておいたネズミを部屋に放してサボるという考えを思いつきクラスが一つになって実行しました。(そんな時の団結は強かった)しかし我々の考えが甘かったのか、その日のネズミは部屋を動き回らず先生の「ネズミの1匹や2匹で驚くな!」の一言で失敗に終わったことがありました。
また、クラスで捨てネコを飼ったこともあり数々のいたずらをしました。でも、毎日が楽しかったという思い出が心に刻まれている中学生活でした。
パジャマ作り
第26回卒 吉田(大矩) 容子
体育館の入り口には、ベニヤで作られた男女の更衣室が左右にあったっけ。ステージの横には、女子がめったに入ることの出来ない技術室、庭にプールもあったっけ。とっさに思い出したのは、当時の校舎の姿でした。
私は、家庭科の時間にパジャマを作った事をよく覚えています。友達数人と長野市まで、生地を買いに行きました。寸法を計って、型紙を作り、布の裁断、しつけがけ、ボタンホールも手作業でしたので、何度もやり直しをしました。ですから出来上がった時の喜びは、言うまでもありません。全員でそれを着て、男子の目を気にしながら、屋外で写真を撮ったりもしました。
私だけでなく、みんな充実した笑顔の写真だったと思います。
樅(もみ)の木の事
第27回卒 竹田 幸則
聖火台の南側に高さ7から8メートルに育った樅の木があります。この木は、私たちが3年のときに全員が1本ずつ植えたものです。植えた理由はその時も今も分かりません。(覚えていないだけで、説明があったかも?)兼俣まで歩いて行って畑で育てられた苗を掘って数台の一輪車に乗せて運んで来た記憶があります。
あれから23年、百本以上植えたのですが風雪に耐えたのは一割程度です。意識して見ないとわからない場所に立っている木ですが、私たちが学んだ校舎がない今では、この樅の木がなつかしく思われます。
毎夏、用務員さんが、この樅の木の下草刈りをしてくれます。ありがたいなと思います。あまり知られていない小さな出来事を思い出に書いてみました。
ほんの小さな記憶
第28回卒 坂詰 浩一
アンシロ、ジャムバタ、焼きたてのアンパン、部活帰りによく食べた。パンのみみを餌にしてグラウンド下のため池で釣りをした。先輩達は実にこわかった。廊下で会うと礼、正座で説教、妙高山へむかって発声練習。呼び出されては叱られたものだ。野球部ではボールひろいにいくといってセンター奥の小川で水をかくれて飲んだ。
今は中止にするだろう豪雨の中、球技大会でサッカーをした。竹の子狩り、臨海学校、校内スキー大会、そんな行事もあった。夏休みに生徒会資金のため、ゲンノショウコなどを取った。大雪の時は校舎の周りの除雪をした。修学旅行は東京。帰りは国鉄のストでバスだった。
卒業して20年余り、記憶は教室の外、こんなことばかり。
青いかばん
第29回卒 宮下 清恵
創立50周年おめでとうございます。早いもので私が、本校を卒業して21年もたってしまいました。
ちょうど私達が、中学校に入学する年から通学かばんが今の青いかばんに変わったのです。今になれば、たかがかばんが変わったぐらいでどうということはないのではないかという感じはしますが、その時は、今度はランドセルじゃないんだ、手さげの学生かばんになるのだと思っていただけにけっこうショックでした。 あっという間の3年間でしたが、先生におこられたり、ほめられたり、楽しかった事、つらい事、いやな事などいろいろあった3年間でした。これからもすばらしい中学生活が、送れるようなそんな学校であってほしいと思います。

