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執筆者の写真CS委員

Hello Myoko No.26 恩田 祐一さん

 Hello Myokoは卒業生や地域の方から在校生へ地域へ、妙高をテーマにしたエッセイやインタビュー記事です。


 今回は1996年卒業の恩田 祐一(おんだ ゆういち)さんです。クロスカントリースキーで連続3度出場の冬季オリンピック選手引退後、新居を新赤倉に構え、現在はナショナルチームU20コーチとして国内外を飛び回っています。ちょうどオフシーズンのご自宅滞在のタイミングでインタビューをお願いし、現役時代から現在までクロカンに携わる人生を語っていただきました。

 

クロカン一筋、これからはコーチとして〜 恩田 祐一


妙高市新赤倉在住

ナショナルチームU20コーチ


 クロスカントリースキーナショナルチームのコーチをやりつつ、オガサカクロスカントリースキーの開発にも携わっています。シーズン中は男女各5名計10名のナショナルチーム選手のサポート等で全国、海外を飛び回っています。夏は標高が高く涼しい志賀高原をメインに月の半分は合宿に帯同し、冬はほぼずっと北海道の合宿に参加しています。シーズンオフの今は休みを頂いて自宅にいます。


中学校の思い出


 スキーに関しては中三で札幌の全中で勝ったことです。すごく寒かったのを覚えています。それまで高原中が10連覇していたので、自分の代で途切れないように頑張り伝統を守れました。今の全中は野沢で何年か引き受けているみたいですが、当時は全国で全中が開催されていて岐阜とかにも行きました。

 学校行事は体育祭が思い出深いです。三年生の時、途中で雨が降ってきて軍のパネルをどうするか、でも僕たちは断固外でやりたいと主張して実行しましたね。


 高校は、長野の飯山高校へ行ったのでその頃から妙高を離れました。


クロスカントリースキーの面白さ


 クロカンはやればやっただけ自分に跳ね返ってきて成績に結びつく競技なんです。もちろん才能も必要ですが、それ以前に努力が必要な競技で、どれだけ自分と向き合い、どれだけ自分に勝てるかが自分としては面白いかなと。

 小学校三年でアルペンかクロカンかの選択があり、姉がクロカンをやっていたのと近所のみんながクロカンをやっていたので、自然の流れでクロカンを選びました。新赤倉実家の第二常会から上(スキー場に近い)に住んでいたらアルペンをやっていたかもしれませんが、第一常会に住んでいたのでその違いはありました(笑)。そこからずっとクロカンです。

 小学校の時、信越学童では勝てなくてズバ抜けていたわけでもなかったですが、すごく負けず嫌いなので、負けたことでより頑張ったとは思います。すぐ上に当時すごく強かった駒村先輩がいたので、ずっと追っかけていましたね。

 最初の世界大会は大学1年の19歳の時です。ジュニアの世界大会です。


オリンピックを意識し始めたのは?


 妙高から多くの選手がオリンピックに出ていたので、スキーを始めた時に目指すのは自然の流れで特別なことではなく、日本で一番になれば出れると簡単に思っていました。メダルが欲しくて次こそ!次こそ!と3回連続出場*した感じです。2006年トリノでは妙高高原から多くの選手が出場しましたよ。2010年バンクーバーでは、前年のワールドカップで4位になり、夏も順調で自分の中でも順調に調整ができていて、これはメダル行けるかなと思っていた大会だったんですけど、結果17位で入賞すら出来なかったのですごく悔しかったです。年齢的にももう一度チャレンジできたので、次も頑張りました。

*2006年トリノ(イタリア)

2010年バンクーバー(カナダ)

2014年ソチ(ロシア)

オリンピックのエピソード


 通常のワールドカップでは取材数が少ないのですが、4年に一度のオリンピックでの取材数は明らかに違いますね。記事の取り上げられ方も様々です。バンクーバーの時に僕は一度炎上しているんですね。選手村へ入ると全競技記者会見があるんですが、「選手村の様子はどうですか?」と聞かれて、スケートとスキーでは選手村は別で、スケートは超豪華なホテルのような施設で、かたやスキーは部屋にテレビも無くベッドしかない部屋...オフレコと言われたので「スケートみたいな部屋でなく残念ですね」とコメントしたらそれが記事になって、団長の橋本聖子さんが自分達の部屋を見に来て「部屋の状況は見て分かるけど、発言は気をつけないさい」と注意されました。その件で競技には影響しませんでしたが、取材対応は言葉を選びました。

 選手にはメディア対応の教育もあり、今現在U20の選手と接しているので言葉の選び方も気をつけています。多少やりにくい面もありますが、ハラスメントに繋がらないように時代の流れに沿う必要はあると思っています。メディア対応は記事の大小に関係なく、中学生でも取材を受けた時は、自分の意図とは違って伝わる場合もあるので言葉選びは気をつけた方が良いですね。


選手継続の資金面について


 スポンサーが途切れた時期が一年半ほどあったので、その時は辛かったですね。それまでの所属先からの給料を貯蓄していたのでなんとか活動は継続できました。その後サポート企業が見つかったので、最後まで選手を続けられましたが、どこでどういう人と繋がりがあるか分からないので、積極的に自分でアンテナを張って、駄目もとで勇気を出してそこに飛び込んでいくのが良いかもしれません。


中学生へ地域へ


 中学スキー部員数は年々減少していますが、その中でも変わらず強い選手を排出しているのは環境が大きいと思います。シーズン中ずっと使用できるコースがあるのに加えて、自分の時代から地域のサポートもありますしね。僕もそろそろ出来ることがないかと模索しています。部活動が地域活動へ移行していくことも聞いていますし、何かをやらなくてはと思っています。何が出来るのか、何が必要なのかが自分の中でもわからない部分がありますね。ついこの間も駒村先輩と何かやらなくちゃいけないよねと話はしていました。現場や地域が何を求めているのか...部活の移行期に普及に貢献したいとは考えています。そうでないとスキー自体が衰退していくので。

 大きな目標があってそこに向かって小さな目標があるので、中学生というのは可能性が無限大、目標が都度変わったとしても追い求めて自分の目標を目指して欲しいです。僕は振り返るとスキー一筋でしたね。

 現在やっているナショナルチームのコーチは一年ごとの更新ですが、U20チームはオリンピックに直結している選手ではないので、オリンピックに向けてのつなげ役です。将来オリンピックで活躍する為の基礎を作っていければと思っています。


妙高でいちばん好きな場所


 ほっとアリーナがあるグランド競技場周辺から見る妙高山が好きです。いちばん雄大に見えますね。ローラースキー等練習拠点がそこだったので、いつも妙高山に見守られて練習していた感じがします。食べ物で言うともちやのケーキですけど。




妙高高原小学校統合について


 僕の子供が一年生で入学しました。北小校舎前にあった大きな木がシンボルだったのですが、駐車場の問題とはいえ、撤去された時は悲しかったです。北小で児童会長をやっていたので余計に感じます。自分の時代は杉、北、南の三校あったので、高原に一校しかないのは寂しいですが、子供達を見ていると統合は一つの方法であったと感じています。

 スキーは雪国でしか出来ないスポーツなので、無理に競技をやって欲しいとは思わないけど、多くの人に滑れるようにはなって欲しいです。

 新小学校では下校の時間が決まっているので放課後運動クラブはないかもしれませんが、共働き家庭も多く、放課後運動クラブ的に週に何回か活動できると良いかなと考えています。需要があるのか、求められているのか...スキーに特化せずに運動としても人手があるといいですね。コミュニティスクールHPの発信があるのは大事です。僕らは現場で、発信はコミュニティスクールで!


[後記]

 現役時代は妙高高原内でトレーニングをしている姿をよく見かけました。引退後は子供さんと遊んでいる姿をよく見かけるようになった恩田さんです。高原は元オリンピアの皆さんが地元で次世代のために活躍していただける贅沢な地域です。スキーだけでなく、子供たちの未来の応援団として様々な場でご協力をお願いしたいですね。


「Hello Myoko」卒業生のエッセイ自薦他薦大募集です。インタビュー形式も行っています。是非myokokogen.jhs@gmail.comまでご一報ください。


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